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【ご挨拶】

週刊「ボストーク通信」編集責任者 河尾基

 

平素より「ボストーク通信」を御愛顧いただき誠にありがとうございます。
 この度、「ボストーク通信」は晴れて通巻1000号を迎えることができました。ここまで続けることができたのはひとえに、弊誌を御購読し、支えてくださっている皆様のおかげです。インターネットの普及により情報の価格相場が下がり続けている昨今ですが、それでも私どもの情報誌をご贔屓いただけるお客様がいることに、日々励まされております。その意味をしっかりと受け止めて、今後も一層有益な情報をお届けできるよう努めて参ります。


  さて、せっかく1000号という節目なので、普段の紙面では取り上げることのないテーマ、すなわち「ボストーク通信」という媒体そのものについて少し述べてみたいと思います。
  といっても、1993年2月の「ダーリニ・ヴォストーク通信」創刊号からの20年の歩みを概観することは容易ではなく、全号を通読すること自体が大変骨の折れる作業です(今回、個人的に挑戦してみましたが挫折しました)。また、私自身、当誌の編集(つまりテーマの選定、記事の執筆、校正などの一連の作業)に参加し始めたのは840号(2010年3月)くらいからで、編集責任者になったのは880号(2011年1月)あたりです。1993年にはまだ中学生でした。また、残念なことに、90年代の当誌編集部を知るのは今では代表の田代のみとなっております。雑誌の内容については、恥ずかしながら、古くからの読者の皆様の方が良くご存知かもしれません。したがって、私は単なる一読者として当時の紙面を振り返ってみたいと思います。

 93〜95年くらいまでの約3年間は、編集部は大変強力な布陣でした。極東のフリーランスのロシア人ジャーナリストを5人ほど抱え、毎週のように手の込んだ取材記事をいくつも載せていました。日本人は翻訳専門のスタッフが1人いただけだそうです。インタネットで気軽に専門用語の検索もできない時代、辞書を引きながらの翻訳に苦労しただろうことが想像されます。
  この時代、開港したばかりのウラジオストクから来る情報は何でも目新しく、また、ジャーナリストたち自身が新しい現実を新しい目で見ていたため、記事も熱気を感じさせるものが多かったようです。当時はウラジオストクにおける日本の存在も今よりも大きかったようで、「ウラジオの日ロ合弁企業」という連載コーナーさえありました(準備1号から18号までほぼ毎号)。また、知事や市長たちも積極的に取材に応じました。ハバロフスク地方の知事だったイシャエフ氏(現極東発展相)のインタビューなどもあります(28号)。
  当時は「ナホトカ自由経済特区」や「豆満江」構想、「沿海地方実業家連盟(パクト)」やフェスコ(極東海運)傘下の商社「アクフェス」(1号他)の動向など、重要な経済トピックスがあり、日本企業も深いかかわりを持っていました。しかし、現在と比較して紙面の多くを占めていたのは政治と社会のニュースです。経済案件よりも社会問題が世を賑わせていた時代で、「沿海地方のマフィア」で特集記事を組めたのは90年代前半ならではのことでしょう(41号、62号、66号)。他にも、当時は「ウラジオの交通・犯罪事情」というコーナーを設け、毎週のように以下のようなニュースを載せていました:

 市交通警察広報課によると、先週ウラジオで381件の交通事故が発生し、その内9件は死亡事故だった。ケースとしては、氷上の釣り愛好者が割れた氷にはまって沈んでしまうというものだった。トヨタ・カローラの運転手も薄い氷の上を走り、水中に落ちてしまった。車はすぐ割れた所から沈み、運転手は車内から脱出することができなかった。市内の道路も安全ではない。例えば、3月21日、車が赤信号にもかかわらず横断歩道に侵入し、幼い子供とおばあさんを跳ね飛ばした。3才の女の子は即死、おばあさんは病院に運ばれ重傷。犯人は現場から逃走した。例のごとく、路上に駐車してある車は簡単に盗まれてしまう。先週も312台の車が盗まれた。しかし、1台も見つかっていない。
  市内務局広報課によると、先週ウラジオで247件の犯罪が発生し、その内、殺人が6件、重傷事件が11件だった。殺人は酔っ払いの喧嘩や犯罪グループによるもので、一般市民には被害は及ばなかった。だが、空き巣は、鍋、食器、シーツ、下着類の果てまで盗み住民を丸裸にしている。その他、3月21日に大きな事件が起こった。映画館「チャイカ」で「ユジン」社の電化製品の展示即売会が開かれていたのだが、武器を持った5人組が強盗に押し入り、警備員を縛りあげテレビとビデオ数台を持ち去った。(107号)

 ……人口60万人ほどの町で、毎週200〜300台もの自動車が盗まれていた時代でした。また、例えば「浮浪児も生きていかねばならない」と題して次のような記事も出ていました:

 ウラジオストクの浮浪児の好きな仕事はお金をせがむこと。これらの子供は5〜9才で、その親が長い生活苦のため、子供に自力で生きるよう完全に見捨てたものである。子供たちは一日中、お金を持っている買い物客を当てにして売店や店の周りをぶらつく。客はおつりや、アイスクリーム代として1000ルーブルをやったりする。子供たちによると、良さそうな顔をした人を選んで、袖をつかんだり、バッグを引っ張ったり、「お菓子を買ってくれ」とか「飴を買うお金をくれ」と、お願いするどころか命ずるのである。多くの通行人はそのずうずうしさに面食らって要求された金をやる。そして、成功したガキたちはまた新たなる犠牲者めがけて突進する。子供たちは学校や習い事には行っていない。通りが彼らの活動の場で、この汚い格好をした子供たちは、そこの厳しい掟にしたがって生きている。(106号)

 しかし、極東のロシア人たちはひたすら貧困に耐えていただけ、社会不安に翻弄されていただけではありませんでした。彼らの生活に潤いを与えていたものの一つが、日本や韓国から輸入される家電でした(71号、72号73号、75号)。ロシア人が何を消費し、どのような生活を送っているのか具体的に知りたいという要望は今でも皆様からいただきますが、インターネットが普及していなかった当時は日本で気軽に情報を手に入れるのは難しいことでした。そのため当誌では、「ウラジオの商品物価」(106号他)や「ウラジオのクジェフスキーさん一家」(136号)といった一般家庭の紹介記事も定期的に掲載していました(現在は「月刊ロシア通信」で、物価調査は不定期、家族記事は定期的に掲載しています)。

 また、現在のように政治が中央集権化されていなかった当時は、政治記事にも多くの紙面を割いていました。90年代前半には、沿海地方のロシアからの「独立」が地方議会の議題に上がり、地元の鉱山会社出身のナズドラチェンコ知事が、エリツィン大統領やチュバイス副首相(現ロスナノ代表取締役)に対立して手を焼かせていました。船員が持ち込む自動車や家電をはじめとして、多くの人が手を染めていたサイドビジネスが社会に占める比重が大きかったため、狭い業界の経済ニュースばかりを追いかけても足りなかったのです。
  ご関心をお持ちの購読会員の方は、これまでいくつか貼ったリンクなどをたどっていただければと思います。当時の翻訳スタッフのチェック不足による誤字や、ウェブアーカイブ作成時(2007年頃)の識字ソフトのエラーによる誤字などが放置されたままになっていてお恥ずかしいばかりですが、今後、折を見て少しずつ修正していきたいと思います。

 こうした当時の情勢の中で、貿易の最前線に立ち続けていた商社駐在員の方々は何を考えていたか。1995年の第100号に、ウラジオストクに駐在していた三菱商事の山田芳正氏、伊藤忠商事の町田道彦氏、日商岩井の内山恒平氏、丸紅の松本邦夫氏に「ロシア極東の可能性について」と題して寄稿して頂きました。例えば、松本氏は次のように指摘しています:

 92年のウラジオストク市開放の際の熱は、去年頃から急速に冷え込んだように感じられます。と言っても、当時は観光が中心で、ビジネスブームは煽られるようにして、思惑が先行して膨らんでいったのが実態だったようにおもいます。たしかに、日本からの人の往来はその直後から一昨年にかけて、非常に活発になりました。ただし観光がてらの市場観察が多かったわりに、それ以上踏み込むケースが非常に少なかったように思います。
  その結果、ロシア極東に関心をもっている潜在的なビジネス関係者の来訪が一巡し、ウラジオを拠点に活動して行こうという企業の選別がすすみ、結果として残ったのがわれわれだけだったというのが、現状だろうと思います。そういう意味では、冷え込んだと言うのは観光ブームの話で、これから実質的なビジネスの開拓が始まると言えないこともありません。
  しかし、それにともない心理的にも楽観論が姿を潜め、どちらかと言えば悲観的なムードが支配的になりつつあるのは否めないように思います。また極東の貿易取引もロシアの通関統計を見る限り、実際減少傾向にあります。
  いろいろな障害があるにせよ、原因はまあひとつといってよいように思います。政権の不安定と社会不安がそれで、それ以外はそれを原因に発生する現象だと思います。はやい話が、毎日のように発布されては修正、撤回され相互に矛盾する法令を尊重する精神をだれが発揮できるかということ、及び使途の不明な政府予算と10年後の受け取り金額が現在の千分の一になる見通しの年金のために、だれがまともに税金や社会保険料を支払うか、という問題ですね。<中略>
  まあ、そんな背景があって、貿易もあまり良好な環境にはありません。問題はいつロシアそのものが安定してくるかにかかっているとおもいますが、今この時期に快活に楽観論をとなえるには、ちょっと心臓が強くないとだめだと思いますね。

 また、内山氏は次のように述べています(ちなみに、現在は独立して北海道でご活躍中の同氏には、一昨年の923号でもご寄稿頂きました):

 いまだに、極東はロシア経済圏の枠組みのなかでしか経済のあり方を考えられず、モスクワに従来通り補助金乞いを行い、アジア太平洋経済圏の中に入っていることが出来ず、自立できぬままにいらだっているのである。
  なぜこのような状況がいまだ続いているのだろうか。
  忌憚無く言えば、極東とは、世界の経済の規模から言えば単一のユニットにすぎず、他国から見れば、そこには個別の行政州区画など存在せず、極東経済圏として存在しているのにすぎないのである(コンピューターの操作一つで数百億ドルの金が一瞬にして国境を行き交うボーダレスの時代にあって、領土の大きさや、地下に眠っている未開発の資源の多さをもって一つの州で経済圏が成り立つと思い込んでいる方々は、速やかに今はなき、国家計画委員会に転職願いたい)。
  したがって、極東が経済的に自立するためには、極東の各行政府が大同団結し、中央政府に対し、税制面で、地理的ハンディキャップを克服できる優遇措置を要求し、アジア太平洋経済圏の資金が流れ込む体制づくりをすべきではないか。また、大きな市場を持つアジア太平洋経済圏へ参加すべく、極東の指導者が一丸となり努力すべきではないのか。
  しかし現実を見れば、サハリン、ハバロフスク、沿海州の知事が仲が悪いので同席したくない、といった話は聞くが、極東の行政府が一致団結し、かかる体制を作り出す為に中央政府に対し働きかけを行ったという事を聞いたことはない。
  また、日本の有力な経済団体が極東経済について、サハリン、ハバロフスク、沿海州の経済界との会議をもった折も、他の州と同席できるか、ということで3都市で個別に会議をもたざるをえなくなった事すらある。<中略>
  このような事態が繰り返されるならば、ロシア中央政府に対し強い発言力など得られようはずもなく、ロシア経済圏の孤児に甘んじる事になるばかりか、他国の経済界からも相手にされなくなってしまうであろう。<中略>
  誤解を避けるために付け加えるが、以上のことはロシアに対する説教や批判で言っているのではない。
  極東に国内外から社会資本の整備や生産資本を創立する多額の資金の流れを作り出す為に言っているのである。資金無きところには雇用機会もなくその結果、筆者の如き極東オタクが失職するという経済法則にしたがって言っているのである。そうならない為に、筆者は「極東の指導者達、団結せよ」と、訴えているのである。

 このような指摘や提言から18年。前進はあったものの未だ道半ば、と言えるでしょうか。

 さて、90年代後半からは編集部がやや縮小し、161号(1996年)からは年間購読料もそれまでの22万円から12万円に引き下げられました。それまでの贅沢な編集体制は、初期投資とウラジオストクの熱気の勢いに支えられたものであり、また、当時のウラジオストクの物価が安かったおかげでもあったようです。
  近年の編集部は、日本人3〜4人で概ね活動しています(他に購読手続及びウェブサイト管理1人、ウラジオ事務所のサポートスタッフ、外注スタッフやフリーランスのロシア人ジャーナリスト数人)。そして編集部は、その他に個別の市場調査や月刊「ロシア通信」の発行を行っています。
  2003〜08年に編集責任者を務めた濱野剛は、これに加えて貿易事業も担当していたので苦労が多かったようです(濱野は現在は貿易部門を統括しています)。しかしながら、貿易をやることでウラジオストクの様々なビジネスマンと交流する機会が増え、中小ビジネスや中古車ビジネスに関する記事が充実することになりました。2000年代中旬以降は、過去最高の年間51万台を日本がロシア極東に輸出した2008年に向けて中古車貿易が大きく伸び、合わせてその規制や規制すり抜けの動きが目まぐるしく展開されました。それを受け、当誌でも関税引き上げにまつわる様々なニュースや、「ミニ・カタログ」による関税の算出方法や、部品通関をめぐる動きなどを詳細に報じておりました(633号、634号、691号他)。その後、当誌の中古車ビジネスのテーマは、自動車産業全般のテーマへと広がり、エリアも極東からロシア全域へと拡大していきました。
  また、2000年代は石油ガス資源の輸出用インフラが極東で整備された時期にもあたり、送油システムに関する技術的な話題から住民の反応のような社会的な話題まで、地元のニュースを伝え続けました。
  1996年から2010年までの約15年間は、紙面構成は大きく変わることはありませんでした。とはいえこの間、ロシアの主要紙のダイジェストコーナーを設けたり(2007年692号以降)、大統領動向コーナーを設けたり(2007年725号から2010年878号まで)といったマイナーチェンジはありました。
  大きな変化としては、2010年1月の830号から紙面が「連邦ニュース」と「極東ニュース」に分かれたことを挙げられます。2008〜10年に編集責任者を務めた尾松亮により、極東以外のロシアのニュースのボリュームはそれまでも実質的に増加していましたが、830号からは形式上でも明示されることになりました。背景には、2000年代後半に自動車メーカーをはじめとする日本企業のロシア西部への進出が本格化し、他方で、極東ではリーマンショックと中古車輸入関税の大幅引き上げにより中古車ビジネスが落ち込み、地域間交流の経済的な結実が遅れていたことがあると見てもよいのかもしれません。極東の資源開発とAPECサミットの開催というビッグイベントもありましたが、北海道企業のサハリンプロジェクトへの参加を除いては、90年代のように日本の中小企業が積極的に出ていくには難しい分野でした。
  2007年には編集部は新潟から東京に移り、2011年4月(891号)には誌名が(細かい話ですが、2002年1月にダーリニ・「ヴォ」ストーク通信からダーリニ・「ボ」ストーク通信になったのを経て)「ボストーク通信」に改称され、現在に至っています。「ダーリニ・ボストーク」(極東)は一般の方には覚えてもらいにくいし発音も難しいからというのが理由の一つですが、「ボストーク」(東方)になったことで、“ロシアから見た日本”や“欧米から見たロシア”という意味を込めるのも悪くないのではと個人的には思っています。

 こうした一連の軌道修正がどこまで正しかったのか、少なくとも今の私には評価できません。しかし今回バックナンバーを少し振り返ってみて、また、先日皆様にお願いした読者アンケートのご回答を読んでみて(まだご送付をお待ちしております。よろしくお願いいたします)、現在の紙面にはまだ改善すべき点があるし、過去の紙面づくりから生かすべきことも多いと学ばされました。例えば、最近の紙面でロシアでの取材記事が減ってきていることは反省すべきだと思います。
  様々な制約のある中でどれだけ高品質な製品をつくり、提供できるか、それは情報業にも当てはまることです。皆様のご指導やご要望がそのための大きな支えとなります。今後とも何卒宜しくお願い申し上げます。

 



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